Environment

オフセットからインセットへ ― 食と農業分野が直面する課題と国際制度の最前線

「インセット」は、企業が自社のサプライチェーン内で温室効果ガスを実質的に削減する手法として国際的に注目が高まっています。特に「食と農」の分野では、CO₂以外のガスへの対応や小規模生産者の多さ、環境データの測定・検証の難しさなど、課題が多く存在します。本記事では、インセットの基本から世界的な政策・市場動向、食農分野の課題、事例までを紹介し、企業の競争力やブランド価値向上につながる活用法を専門的知見に基づいて解説します。

オフセットからインセットへ ― 意識変化   

企業の脱炭素活動に不可欠なカーボンオフセット(Carbon Offset)は、近年、その信頼性と実効性をめぐる国際的な批判にさらされています。これに伴い、より実質的かつ信頼性の高い選択肢として「カーボンインセット(Insetting)」へのシフトが世界的に進み始めています。

オフセットの限界と批判の高まり   

2023年1月、英『ガーディアン』、独『Die Zeit』、調査報道組織SourceMaterialによる9ヶ月にわたる合同調査が発表され、カーボンオフセットの信頼性を根底から揺るがす内容が明らかになりました。Verraが認証した森⧸林カーボンクレジットのうち、90%以上が「実質的効果のない“ファントムクレジット”」であり、気候変動の抑制に寄与していないという結論が出されています(*1)。調査では、Cambridge大学などの研究を基に、ベースライン(森林が失われると仮定した前提)の過大設定が問題とされ、Verraが認証するプロジェクトでは、平均で400%もの排出削減効果が過剰計上されていたと報告されています(*1)。また、守られるべき住民の土地権も無視された事例も確認され、オフセットが人権侵害や社会的不公正を助長するリスクも浮き彫りとなりました。こうした批判に応じ、Verra自身も報道に対する反論を発表しましたが、調査内容はVoluntary Carbon Market(自主的炭素取引市場)全体に波紋を広げ、社会的信頼を大きく失うきっかけとなっています(*1)。さらに、米カリフォルニア州の排出量取引制度におけるオフセット活用についても、UCバークレー大学の研究者らが「追加性がない」「排出回避が誇張されている」と警告を発しています(*2)。

SBTiが示すインセット重視の潮流とステークホルダーの期待   

こうしたオフセットに対する信頼性の揺らぎを受け、企業の気候変動への対応にも「本質的な排出削減」が強く求められるようになっています。その代表的な制度設計が、SBTi(Science Based Targets initiative)によるネットゼロ基準です。SBTiは、企業が2050年までに90%以上の温室効果ガス排出を実質的な削減(インセット)によって達成すべきであり、カーボンオフセットの利用はごく一部の残余排出に限定されるべきだとする方針を明確にしています(*3)。このガイドラインは、単なる目標設定を超えて、企業活動の中で「削減の質」や「削減の場所」までも問うものです。実際、SBTiに認定される企業数は年々増加しており、多くのグローバル企業がこの流れに追随しています(*4)。このような動向は、企業の脱炭素戦略が「責任ある行動」として市場で認識されるための、新たなスタンダードになりつつあることを示しています。

さらにこの潮流は、企業の外部ステークホルダー―とりわけ消費者および投資家の意思決定にも明確に影響を及ぼしています。McKinseyの調査によれば、60%以上の消費者が「サステナビリティに積極的に取り組む企業の商品にプレミアムを支払ってもよい」と回答しており、価格以外の要素、特に環境姿勢そのものが購買の重要な決定要因となっています(*5)。また、PwCのレポートでも、Z世代・ミレニアル世代の過半数超が、ESGに関心を持ち、それを考慮してブランド選定や就職活動を行っていると報告されています(*6)。これは、脱炭素化やインセットなどの取り組みが、もはや環境戦略にとどまらず、企業価値・ブランド力・人的資本確保に直結する経営課題であることを如実に示しています。

カーボンオフセットの信頼性低下を受け、企業の脱炭素戦略は「実質的な削減」重視へと転換しています。中でも、サプライチェーン内で確実な削減を行う「インセット」は、国際基準でも推奨される対応策として注目を集めています。しかしその実行は領域によって難易度が異なり、特に“食と農”分野では技術・組織の両面で高いハードルが存在します。次章では、この分野特有の課題構造を詳しく解説します。

なぜ“食と農”分野のインセットは実装に工夫が求められるのか   

食と農の分野は、再生型農業や土壌炭素隔離といった手法により、気候変動対策への貢献が期待されています。しかし、現実にはこの領域でのインセット実施は非常に難易度が高く、様々な技術的・組織的課題が立ちはだかっています。

多様な温室効果ガスの管理が求められる   

農業・食料生産分野では、CO₂だけでなくメタン(CH₄)や亜酸化窒素(N₂O)といった複数の温室効果ガスが排出の主因となります。たとえば、牛の反すうや稲作で発生するメタン、化学肥料由来のN₂Oなどは、いずれもCO₂と比較して温室効果が数十〜数百倍にのぼり、より厳密な排出管理が求められます(*7)(*8)。これらのガスは、発生源や挙動が多様であるため、ひとつの技術では包括的な管理が困難です。結果として、監視・報告(MRV)体制が複雑化し、他分野と比べても測定の精度確保が容易ではありません。

生産者が小規模かつ分散している   

世界の農業生産者の大多数は小規模農家であり、地理的にも広く分散しています。たとえば、FAOのデータによれば、世界の農家のうち約85%が小規模生産者であり、経営資源やデジタルインフラが限られている場合も少なくありません(*9)。このような構造では、インセットのような新しいアプローチを全体に浸透させるには、合意形成・理解促進・技術支援といった多層的なプロセスが必要となり、時間もコストも膨らみやすくなります。

土壌炭素などの測定・検証(MRV)の困難さ   

再生型農業や気候スマート農業において重要視されるのが、土壌中に貯留される炭素(有機態炭素)の測定です。これは理論上、大気中のCO₂を吸収し安定的に隔離する「ネガティブエミッション源」として機能しますが、その測定・定量は非常に難易度が高いとされています。FAOの専門リファレンスによると、土壌炭素量の把握には広域かつ長期間にわたるサンプル採取・分析が必要であり、地域や季節ごとの変動も大きいことが明らかになっています(*10)。さらに、サンプリング手法のばらつきや、リモートセンシング技術の精度限界も課題として挙げられています(*11)。

炭素貯留の効果が現れるまでに時間がかかる   

土壌や生態系による炭素隔離は、数年単位の短期的プロジェクトでは効果が見えにくく、多くの場合5〜20年という中長期的スパンでようやく意味のある削減量を達成することが知られています(*12)。しかも、干ばつ・洪水・土地利用の変化により、せっかく蓄積された炭素が失われるリスクもあり、維持管理も容易ではありません。このように、食と農のインセットは、短期的な見返りを求めにくいという特性があり、企業の事業計画や報告サイクルとのギャップを生みやすくなります。

以上のように、温室効果ガスの多様性、小規模で分散した生産構造、土壌炭素の測定・検証の難しさ、成果が表れるまでの時間遅延といった複合的な課題が、食と農におけるインセットの実装を特に困難なものにしています。しかしこの分野は、地球規模での脱炭素を実現するために欠かせない領域でもあり、今後、制度設計の強化や中長期的な資金投入、MRV体制の高度化など、多面的なアプローチが必要不可欠です。こうした課題意識のもと、各国では食と農の脱炭素を推進するためのインセット制度や政策整備が急速に進んでいます。次章では、ヨーロッパや北米を中心とした世界の食農インセットの最新動向と先進企業・国の取り組み事例を詳しく見ていきます。

世界の食農インセット最新事例と政策動向   

気候変動対策として注目される「インセット」は、食と農の分野においても先進事例が少しずつ増え始めています。企業や行政が直面する課題の克服に向け、国や地域ごとに施策が整備され、国際的にも新たな枠組みの構築が進展しています。

ヨーロッパ:炭素農業と制度化の先進地域   

欧州では農業分野の脱炭素を推進するための法制度・政策整備が進んでいます。なかでも注目されるのが、2024年に本格施行されるEU「Carbon Removals and Carbon Farming Regulation」です。この制度では炭素除去および農業におけるGHG削減を公式認証し、収益化するための基盤整備が進んでいます(*14)。また、EUは「Farm to Fork戦略」において、2030年までに農薬使用50%削減、有機農業を全体の25%へ拡大する目標を掲げており、現にアイルランドではその達成を前倒しで実現しています(*15)(*16)。さらに、フランスが主導する「4パーミル・イニシアティブ」では、土壌炭素貯留の増加によって地球温暖化の抑制を目指し、多くのEU加盟国や発展途上国の支持を集めてきました(*14)。

北米・カリフォルニア:再生型農業への公的支援が拡大   

アメリカのカリフォルニア州では、農業部門の温室効果ガス削減を後押しする複数の施策が推進されています。たとえば、SWEEP(State Water Efficiency and Enhancement Program)およびAMMP(Alternative Manure Management Program)では、農家・酪農家を対象に最大75万ドル規模の資金提供が行われ、水資源の効率化や排泄処理によるメタン削減が促進されています(*17)。さらに、2025年1月より、州の農業政策を担うSBFA(State Board of Food and Agriculture)が”再生型農業”の正式定義を採択。この定義は、今後の民間インセットプロジェクトのベースラインとしても活用される可能性があります(*18)。

企業や自治体の先進事例   

ヨーロッパや北米では、こうした政策を活用した企業主導型のインセットプロジェクトの実証が始まっています。一部の大手食品企業は、自社サプライチェーン上の農産地でリジェネラティブ農法の導入支援とMRV体制構築を進め、排出削減量の可視化・報告に取り組んでいます。これらの事例は、困難が多いとされる食と農のインセットにおいても、実装可能な道筋が存在することを示す好例です(*14)(*17)(*18)。

インセットを通じ自社の商品価値・企業価値向上につなげるために   

インセットは、単なる温室効果ガスの削減手法ではなく、企業のブランド価値やサプライチェーン全体の信頼性向上を支える、中長期的な差別化戦略でもあります。特にBtoBでもBtoCでも、ESG対応の「質」が選定基準となる中、本気で脱炭素に取り組む企業姿勢が強く求められています。

弊社クオンクロップが提供する専門支援   

こうした中で、クオンクロップは「食と農」に特化したインセット実装の専門パートナーとして、国際ルールに準拠しながら定量的・科学的な可視化と戦略的分析支援を提供しています。多様かつ複雑な食と農のサプライチェーン全体を対象にした温室効果ガスをはじめとした環境フットプリント及び削減ポテンシャル分析を効率化し、事業価値につなげる取り組みを支援しています。日本国内だけでなく、欧州やアジアなどの海外各国での支援も行っておりますので、お気軽にお問い合わせいただけますと幸いです。

クオンクロップESG グローバルトレンド調査部

参考文献 

1. The Guardian Investigation Of Verra Carbon Offsets(Carbon Herald)

2. California’s Cap-and-Trade Plan Is Getting a Failing Grade(San Francisco Chronicle)

3. Science Based Targets initiative (SBTi): Net-zero standard

4. Science Based Targets initiative. (2025). Target dashboard.

5. McKinsey & Company (2022): “Consumers care about sustainability—and back it up with their wallets.”

6. PwC (2022): “Consumer and Employee ESG Expectations”

7. Intergovernmental Panel on Climate Change (IPCC), AR6: Climate Change 2021 – The Physical Science Basis

8. Food and Agriculture Organization (FAO), GHG Emissions from Agriculture, Forestry and Other Land Use

9. FAO, The State of Food and Agriculture 2014: Innovation in family farming

10. FAO, Measurement of Soil Carbon Stocks

11. Kuhnert, M., Vetter, S. H., & Smith, P. (2022). Measuring and monitoring soil carbon sequestration.

12. IPCC, Special Report on Climate Change and Land (SRCCL), 2019

13. Lal, R. (2004), Soil carbon sequestration impacts on global climate change and food security, Science

14. ClearBlue Markets「EU Carbon Removal Certification Framework: Key developments and implications」

15. 欧州委員会「Farm to Fork戦略」

16. Teagasc「Ireland has already achieved key 2030 pesticide reduction target」

17. California Department of Food and Agriculture「CDFA Climate-Smart Incentive Program」

18. Agri-Pulse「California adopts a regenerative agriculture definition for programs and policies」

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